当時ニチメンには東京と大阪と名古屋に財務部があった。もともと大阪が発祥の会社であったが、私が入社したころには既に東京財務部に150人、大坂には40人、名古屋には数人という配置で、圧倒的に東京の規模が大きかった。営業部も同様で多くの部署は総合職を東京に転勤させ、大阪での業務は年を追うごとに細くなっていっていたようだ。
採用は大阪でも活発に行っていたことから、大阪の若手が入社数年の後に東京へ転勤するということは頻繁にあることであった。逆に東京から大阪への転勤というケースは少なくとも私が入社してから財務部では例がなかった。左遷なのかなぁ、社長案件に泥ぬったしなぁ。
1年後輩にロンドンの駐在が決まるなか、僕は大阪ですか… 気持ちが腐る方向に進んでいく。そんな時に声をかけてくれたのは会議で東京に出張してきた大阪財務部長だった。
「大阪の若手はちょっと育つと東京に呼ばれちゃうから、若手を育てる人材がいない。生きのいいのはいっぱいいるから、彼らをしっかりと育てる役割を担える人材をと、俺が本部長に頼んで来てもらうことになった」
今から考えるとほんとに彼が頼んだかどうかはわからない。ただ、そう言ってくれるだけで気持が変わるということを自分で実感することができた。
「やってやろうじゃないですか!」みたいな。
大阪には結局2年半勤務した。宝塚に社宅があり、歌劇団の専門学校の生徒たちも乗る電車で会社に通う。高級住宅街のところどころに更地があって、阪神大震災の爪痕がのこっていたりもした。子供が小さかったので思うほどにはであることはできなかったが、京都・奈良・神戸と初めて住む関西圏はとても楽しく、新しい発見ばかりだった。
仕事面で面白い働きができた。今では珍しくもないことだが、売掛債権の流動化に挑戦することができた。ニチメンは当時フリースで一躍名をはせた大手アパレルチェーンとのお取引が続いていた。その企業が山口の小さな町の衣料商店であったころからの取引だ。急成長を遂げるチェーン展開に合わせて当社の取引量もどんどん大きく増加していた。そんな時に繊維部隊から相談があった。超優良取引先でこれからも絶対に伸び続ける先なんだが、取引量が大きくなりすぎて経営からコメントが付いたと困り切っていた。
如何に優良な取引先でも、わが社の売上に占める割合が大きくなりすぎるのはいかがなものかというコメントだったらしい。確かに取引が1社に集中するとそこが躓くと直接的に自社の経営に影響しちゃうわけで、教科書的には妥当なコメントだ。しかし、当時から20年後の今でも伸び続けている企業との取引を集中しすぎているからと控えたならば、取引に入りたくて手をこまねいている商社はいくらでもいて、当社の地位はあっという間にとってかわられてしまうだろう。繊維の心配もまさにそこである。
「B/Sに売掛金が残っているからいけないんですね? じゃ、オフバランスにすればいいんじゃないすか?」それが僕の即答だった。
国際金融部にいたときに融資を切り分けて融資団を組成するような手法はいくらでもやってきていたので、対象が融資じゃなくて売掛金に変わるだけ。流動化はそれほど難しくなくできるんじゃないかと想定したわけです。
それからは怒涛の勢いで売掛債権の流動化について一から勉強して、内容を詰めていきました。まだ世の中にそれほど事例がなかったころでした。仲の良かったS信託の担当者が不動産の流動化には詳しかったので、一緒に検討してくれたのが助かりました。
当時一番のハードルとなったのが直属の課長でした。「やったことない。やれる人がおらん。東京に依頼せんと…」とめちゃくちゃ弱気。こちらからは「何言ってるんですか。僕が転勤で来てなくて、東京に依頼されたら僕が担当することになるんだから、人はいるんですよ。都度都度進捗は報告しますんで、やらせてみてください。」
数か月の準備期間を経て、アパレルチェーン向けの売掛債権の流動化は実行された。売掛債権の流動化としてはニチメンで第1号の仕事だった。東京の財務本部でも話題になっていたらしい。取引縮小しか方法がないとあきらめかけていた繊維部隊からは本当に感謝された。もともと大阪のみの細々とした取引しかなかったS信託はその後、うん十倍に与信量を増やしてくれ、東京とも金融取引が始まった。
なんだ、大阪発でもできるじゃん!というのは僕にとっては大きな自信につながった仕事だった。着任前の腐りかけた気持ちなんてどこにもないことに気づいていた。
そんなある日僕に駐在の話が舞い込んだ。