1ーD 石川忠雄ゼミの門をたたく

キャンパスでばったりであった高校の同級生からの「政治で中国語なら塾長の石川ゼミだな」という一言はその後もなんとはない記憶に焼き付いていて、大学2年の後半に3年生以降で所属するゼミを選ぶ際にやはり気にかかっていました。

そもそも、中国という国に対する興味が僕の中で様々要素から膨らんでいました。
教養科目の口語中国語の陳文芷先生が中国に対する興味を植え付けてくれたこと。また当時の中国は今とは全然違い広大な大地に大きな可能性を感じさせるものがあり、中国人そのものも温和で思いやりの深い人たちであるという印象をもっていたこと(これは後に実際に現地に赴任する中でかなり修正されていくのですが…)。
邱永漢や檀一雄らの食に関するエッセイの中で、中華料理のものすごい奥深さにまだ見ぬ魅力を感じていたこと。

まあ、こんなことを総合しての中国というところに結構な魅力を感じていたことはまず大きなポイントでした。
また、慶應義塾の塾長という人を身近にみてみたいというそんなミーハーな気持ちもきちんと持っておりましたし、さらには塾長のゼミなら就職にもきっと有利なんだろうなどという甘い打算もしっかり持っておりました。
しかし選抜は厳しいかもしれない。合格しなかったら、まだ募集を続けている行きたくもないゼミに行くか、ゼミなしっ子という選択か?などと悩んでもいましたが、ふたを開けてみたら石川ゼミのポリシーは「来るものは拒まず」。もちろん事前には知らされていませんし、そんなことはゼミ紹介文にも掛かれていない、ゼミ内部に入って初めて知ることですから、入ゼミの許可が届いた時はとてもうれしかったことを記憶しています。

ちなみに当時の塾長の石川忠雄先生は1977年から1993年まで戦後最長の4期16年を務めあげた名塾長の誉れが高い先生です。しかしながら、身近に接して感じられるお人柄はとても温和で優しく、ユーモアもあり、きわめてダンディでかっこいい先生でした。中国共産党研究としては先駆的な役割を担っていて、特に文化大革命時代に太宗の中国政治学者が文化大革命礼賛志向だった頃に、「文革は単なる権力闘争」と言い放って論争になったと話に聞いています。また日中21世紀委員会の日本側座長を務めたり、中曽根首相のブレーンだったり、日本の政財界の流れをわかりやすく我々に話してくださったりするとても素敵な先生でした。いつもニコニコと穏やかで、私たち学生に対しても同じ目線で語ってくださる先生は私のその後の目指すべき姿になりました。

我々のゼミは三田キャンパスの塾監局の2階にある塾長執務室横の会議室で行われました。先生を囲んで20人ほどが入る部屋には戦時中に塾長だった小泉信三の「練習は不可能を可能とす」という色紙が飾られていました。その後福澤諭吉が1万円札の肖像画となった時に、モデルとなる写真を塾が提供したことから札番号1の一万円札は塾長室に飾られているという噂を聞いたことがありますが、我々は既に卒業した後のことなので、真偽のほどはさだかではありません。

先生を囲んでのゼミはお忙しい塾長のお仕事で時間が取れる時に塾長室で開催し、それ以外の毎週の卒業論文を作成する作業はフェローとして接してくださった大学院生の先輩に頼っていた。この先輩も今では慶應の教授となり、私が香港駐在時に家族ぐるみで仲良くしていただいたご家庭の娘さんが、まさにこの先輩のゼミで勉強したということを偶然知り、人の縁というものはなんと連鎖していくものかと感慨深く感じたものであった。

中国語と中国政治のゼミと、音楽以外には中国に特化したような学生時代を送った僕が、就職活動にあたって考えたことは、やはり中国と関連するような会社に行くべきではないかということでした。商社を就職先として考え始めていた頃に、石川先生がゼミの合間に我々学生に対してある企業名を上げて、誰か行ってみようと思う人はいないかい?と問いかけられました。

その会社名とは「日本パーカライジング株式会社」他にない独自の技術があり、高い業界シェアを持っているすごく良い会社なんだよと。バブル直前期の勉強不足で恰好つけの我々は、もっと誰もが知っているようなビッグネームな会社を希望していて先生をがっかりさせたものでした。「なんでみんな、そんな図体がでかい会社ばっかり選びたがるのかねぇ…」と

ただ、そんなやりとりが35年後の僕の生き方に大きな影響を与えるとはその時には全く考えもしませんでした。(続く)

井村正規

 



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